全国グアム島戦友会


 


加納俊雄会長訪問記

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加納俊雄 会長を訪問(会長の近況)
加納会長を、グアム在住の田崎圭織氏とそのご友人の、帝京大学文学部教育科 准教授 中山京子氏と案内した。田崎圭織氏が6月に来日された時、加納会長訪問の希望が出され、加納会長からはご了承を予め得ていた。 以下、中山京子氏の「訪問記」です。  (事務局 小川東二 )

 

帝京大学文学部教育科 准教授 中山京子

  2010年7月29日、石和温泉駅から、全国グアム島戦友会会長、加納俊雄会長を訪問した。戦友会の事務局長、小川東二氏に案内されて、会長宅に向かうと、自宅前にスッと立つ人の影。「11時頃と言うから11時からここに立ってたよ。」と、ぱりっとした糊の効いたブルーのシャツを身に付けて出迎えてくださった。時計の針はすでに11時半近い。
立派な土間のある民家のお座敷にあげていただき、ご挨拶もそこそこに、加納会長の口から言葉がよどみなく続く。

 私はね、32回グアムに行ったよ。なんでこんなことをしたかを話すからね。

 私は参謀の斥候だったから道を間違うと死ぬんだよ。走るのが速くて斥候になったわけ。山梨の遺族をグアムに連れて行きたくてね。これは50年前につくった旗。写経は昭和50年から続けていてもう4000枚は書いた。
 当時私はタロホホで警備をしていて、49連隊はタロホホ〜パゴ、57連隊はイナラハン、西海岸は静岡の38連隊がいた。水源地は島に2カ所あるんだけど、そこに行くと野生の水牛がいて追っかけてくるんだ。
 昭和19年10月26日、右足の付け根を撃たれた。夜間斥候をしていた。今の飛行場のところでね。撃たれた後、自由に動けなくなったもんだから。参謀が私一人を置いて行った。その時、自決用に手榴弾を一個置いて行った。死んだ兵隊をたくさん見ているから、胸に抱いたら死ねることはわかっていた。そう思ったらなんか気が楽になって、お腹が空いたのを感じてね、ココナツの古いのが落ちているのを見つけて、これがおいしかった。それからココナツで食いつないだ。生きるか死ぬか、自問自答しながら四日間そこにいたの。五日目、勝沼の内田さん、彼は満州からずっと一緒だった仲間でね、彼が気にして戻って来てくれた。うれしかった。涙が出た。(この時加納会長の眼には涙があふれた)
 春田からタロホホまで3ヶ月掛かって歩いた。千人針で傷口縛った。怪我した時は、青草を噛んで唾液をまぜて傷口にはる、これは満州で学んだ。せっせと青草を噛んではったよ。千人針には5銭と10銭が縫い込んであった。「四銭(死戦)こえて五銭、九銭(苦戦)こえて十銭」ってね。これがその時の千人針だよ。
 タロホホでは横井庄一も一緒だった。7人いたが、一緒だとやられるということで彼らは出て行った。14ヶ月間ジャングルにいたんだよ。食いもんなくて島民の家に泥棒に入った。島民は、竹筒に塩を入れてぶら下げているのを知っていたから塩を失敬した。塩分をとらないと身体を維持できないからね。栄養失調になってしまうんだ。
 そのうち、捕虜になった東京出身の矢島が、便所のにおいに気づいて投降させに来た。やつの言うことなんて耳をかせなくて、言うことを聞かなかったら、もっているものをみんな置いて行ってくれた。葉巻がうまかったのなんのって。矢島がせめて、名前だけでも教えてくれというもんだから、名前を言った。
 その後、ソテツをしいてタコの木の屋根の下で休んでいたら、私をおいていった参謀が直々に米軍の将校つきで迎えに来た。両手をついて頭をさげて置いて行ったことを詫びたよ。そして投降するように言った。将校が斥候に両手をついて頭をさげるなんて考えられないことだよ。その時、米兵は刀を出すように言って、私はずっと身に付けていた刀を渡した。武装解除とはこのことか、と泣きながら思った。
 収容施設では軍医の吉田と柴崎がつきっきりで世話をしてくれ、1年でよくなった。1年経って「戦争は意味が無いよ」としみじみ思った。

 足がよくなってから、四ヶ月間、ニミッツ中将のゲストハウスの床磨きの仕事を与えられた。負傷者だから重労働はむかないから。床磨きばかりではなく、厨房のコックが手伝えと言うんだ。唐揚げをつまむこういうの(トングのこと)が短いもんだから、熱いのをいやがっているから、竹で長いのをつくってやった。毎日毎日監視がついてね。 
中将も毎日顔をみて何かいうけど、何いいっているかわからないから、毎日頭さげて「こんにちは」と言ったよ。井上さんは九州出身の美大卒でね、土方仕事はダメでね。ある日アメリカ兵が、白いハンカチと絵の具を与えた。富士山と桜と芸者の絵を描いた。それから半日絵を描いて、半日病院にいた。井上さんはニミッツ中将とともにアメリカにいったんじゃないかな。日本へ帰国するとき、ニミッツ中将は赤い革のダンスシューズと純毛の毛布と葉巻1箱をくれた。
故郷に赤い靴を履いて戻ったとき、みんなびっくりした。だってグアムは玉砕したといって戦死の連絡があって、すでに私の葬式が村葬で済んでいた。みな私は死んだと思っていたから。戻って一軒一軒挨拶にまわっていた時、よそ家のお祖母さんが、あそこんちの息子は戦死したと言い張るから、そんならそれでいいよ、なんて思った。
昭和42年、熱海グランドホテルに全国750人の戦友会の仲間が集まった。そこで慰霊碑をつくることを提案した。(慰霊碑建立までのいきさつが語られる)
慰霊碑が出来て念願かなったよ。2万人死んだんだから。それで32回も行っちゃった。しまいには、加納を連れて行ったらどこにでも案内してくれる、ということになった。山梨出身の679名のうち、40人のみ生還した。遺族を連れて行こうと、思った。信念がないとできないことだよ。信念がないと。今は肺気腫を煩って、目にも来て新聞読めんようになった。
写経4000枚は亡くなった人を思って書いてる。自分の長生きは戦友のおかげ。

 加納会長は上記の他にも語られた。上記は私の心に残った語りの抜粋である。メモをとりながら涙がうかび、また加納会長のユーモアに救われた。1時間たつと、「もう昼どき。腹へって仕方ないよ。食べながら話そう。」と外出の準備。あまりお身体にご負担をかけてもどうかというこちらの心配をよそに、90歳の加納会長が案内して下さったのはトンカツ屋。私が注文するから任せときなさい、とおっしゃる。出て来たのは、小ぶりのトンカツ2枚と20センチほどあるエビフライ、山盛りのご飯とキャベツ。その量に驚きながらも、ご老人だからと思い、海老フライやトンカツを小さく切って差し上げようかと思ったが、そのようなことはまったく無用で、トンカツ、海老フライをどんどん口に運ばれ、私よりも早く完食された。今時の少食な若者はその半分も食べないだろう。90歳のご老人に負けじ、と私たちも皆完食。
まだまだお聞きしたいが、今日はここまで。往復の特急の中では、事務局長小川さんの補足話に耳を傾け、あっという間の一日であった。素晴らしい訪問の一日であった。

  戦争の記憶を語り継ぐことは容易ではないが、直接お話を伺うことができ、幸いであった。
時間を割いて下さった加納会長、小川様に感謝いたします。

 

写経を4000枚行った。
写経を4000枚行った。なぜ、写経を始めることになったかには、それなりの理由かあって、実は、・・・・・・・

 

会長は、グアムでの戦闘の模様を語り始める。
グアム島の戦争は、日本軍の真珠湾爆撃の翌日、ハワイの作戦とほぼ同時に、日本軍の爆撃の開始から始まった。 会長は、グアムでの戦闘の模様を語り始める。

日本軍の上陸作戦
日本軍の上陸作戦は、S16(1941)年12月10日0230頃、(天明は0530)開始された。
(1)松山・馬田  (2)太郎湾  (3)富田湾
  千人針
これが「千人針」で、戦場で唯一の傷の手当てをした、包帯だった。
千人針   千人針

この千人針には、5銭と10銭が、縫い込んである。

 


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訪問記の一部をご覧いただけます。(5分18秒)


 


 

グアム・テニヤン合同墓碑 墓参報告

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平成18年4月2日の第39総会の、翌3日は、グアム・テニヤン合同墓碑の墓参が行われ、芝崎久也顧問から当時のいきさつなどについて説明がありました。

芝崎写真 ここに埋葬されている人達の遺骨を収集しグアム・テニヤンから持ち帰ったものは、もう私一人になってしまった。
米軍の許可を得て番兵同伴の元、数回に渉りご遺骨を収集しました。膨大な量を収容所にて荼毘に付し、減量の上、1200柱のお骨を持ち帰りました。
路傍に頭蓋骨が整然と並べられてあるところがあり、訝る私たちに、踏みつけたり失礼なことの無い様に配慮してのことでした。
作業は終始粛然と和やかに行われ、無事終わることが出来ました。

墓参
ご住職 浅野鐘覚様

墓参
墓参の人々
墓参
阿龍山瑞専寺


グアム・テニヤン合同慰霊 墓碑・墓暦
  • 昭和19年7月21日
    米軍グアム島に上陸開始。
  • 昭和19年8月10日
    グアム島守備日本軍の組織的戦闘終る。
  • 昭和20年11月
    グアム島守備日本軍 生存者有志による遺骨収集1,200体を収集する。
  • 昭和21年11月
    遺骨を奉持して復員 浦賀に上陸。
  • 昭和22年3月
    当時は国に遺骨を納める施設もなく 名古屋市千種区北山共同墓地に埋葬 建碑 テニヤン島の遺骨も合祀。
  • 平成8年2月19日
    東京・千鳥ヶ渕戦没者墓苑に合祀すべく墓地を掘開 採骨し厚生省に手渡す。
  • 平成13年5月14日
    墓地を整備して後世に遺す。
  • 平成14年11月24日
    墓碑を再移転 精入式を施行。

グアム・テニヤン戦没者合同慰霊墓碑 由来について

 第二次世界大戦終結後、昭和20年10月末 グアム捕虜収容所の準士官以上が 米軍の許可を得て 中部太平洋マリアナ海域、グアム・テニヤン島激戦地の玉砕将兵の遺体1200柱を収容し、氏名不詳のまま荼毘に付し 昭和22年復員時、第29師団作戦参謀 故武田英之氏一行が奉持 帰還 復員した。
当時 日本政府には受け入れ態勢が無く 取り敢えず第29師団が名古屋編成で東海三県の将兵が多く、丁度名古屋に墓地を持つ司令部つきの故長谷川 清氏と阿龍山瑞専寺のご協力を得て 昭和23年3月28日、此処北山共同墓地に埋葬し、この墓碑を建立しました。
以来半世紀の間 お参りする人も少なく手入れも不十分でした、祖国日本の礎となり散華された戦友達の英霊をこの儘で良いものかとの声が戦友会遺族会から沸き起り、政府厚生省に請願し、因縁の南満州から隠密裏に南方戦線に出発した年号は変わって居りますが月日は同じ平成8年2月19日、盛大に国立千鳥ヶ渕墓苑に改葬致しました。
改葬したとは言え半世紀に渉り1200柱の英霊を護持して頂いた墓石をこの儘廃棄して良いものでしょうか、戦友ご遺族達とも相談の結果、阿龍山瑞専寺にお願いして残骨と共に出来るだけ永く現在の儘にして英霊の顕彰を続けて行きたいと思います。

平成13年5月14日

全国グアム島戦友会
303
千山会

 


 

1970年慰霊碑日米合同起工式

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グアム平和慰霊公苑 Guam Peace Memorial Park

慰霊碑日米合同起工式

財団法人南太平洋戦没者慰霊協会・米国キリスト教団
昭和42年(1967年) 1月

  ★☆ 日本側主賓 ☆★  

 

代表者 国会議員 総務長官 植 木 光 教 氏
  グアム島戦友会 慰霊団長 国会議員 中 尾 栄 一 氏
  全国グアム島戦友会 会長 吉 田 重 紀 氏
  南太平洋戦没者 遺族代表 小 畑 か な 氏
(南方面軍総司令官 小畑中将令夫人)

 

  植木総務長官
植木総務長官
 
慰霊碑の鉄骨
慰霊碑の鉄骨
  日本僧侶と重機による作業風景
日本僧侶と重機による作業風景
  米国キリスト教団
米国キリスト教団
 
来賓挨拶
来賓挨拶
  日米宗教者と慰霊団
日米宗教者と慰霊団
  慰霊の碑
慰霊の碑
 

 


 

1982年ジーゴ平和寺 落成式

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Catholic, Buddhists dedicate chapel; Sept.3rd., 1982

 


 

戦友会会長 加納俊雄氏写真集

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昭和45年(1970年)2月8日 グアム島戦友会 熱海グランドホテル

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昭和46年(1971年)2月7日 戦友会 ホテルニュー静岡

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昭和48年(1973年)2月3日 戦友会 ホテル さがみや

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昭和53年(1978年) Fort Sauta Agneda

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山梨県 グアム島戦友会

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昭和55年(1980年)11月14日 グアム島戦没者 慰霊団 慰霊塔前 (又木山・ジゴ)

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全国グアム島戦友会吉田会長
「悲しみの追悼の辞」
参列者の涙をそそる

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昭和55年(1980年)11月14日
全国グアム島戦友会主催合同慰霊祭
叉木山に読経が静かに密林に消えて行く

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昭和57年(1982年)10月22日 グアム島戦没者慰霊団 慰霊塔前全員記念写真(叉木山・ジゴ)
昭和58年(1983年)2月2日 静岡新聞
平和寺 初代主任 住職を報ずる

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昭和59年(1984)9月22日 グアム島戦没者慰霊団全員写真 (叉木山・ジゴ)
(昭和61年名簿収録の写真)

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昭和60年(1985年)2月2日 第18回全国グアム島戦友会 箱根湯本・吉池
(昭和61年名簿収録の写真)

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昭和61年(1986年) 第19回全国グアム島戦友会 有馬 ロイヤルホテル

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アンダーソン基地
ここには、一般人は入れないのですが、特別に日本の「戦友会」だということで、入れたのです。
このB52爆撃機はベトナム戦最後の爆撃に行ったので基地に残したのだそうです。

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アガニヤ
見晴台と私

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グアム島の水源地フェンナ
山下様が特別に許されて入ることが出来ました

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昭和61年(1986年) グアム島戦没者慰霊団

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昭和62年(1987年) 第20回全国グアム島戦友会 秋保温泉

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昭和63年(1988年)4月2日 第21回全国グアム島戦友会 熱海 富士屋ホテル

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昭和64年(1989年)4月1日 第22回全国グアム島戦友会 琴平

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平成3年(1991年)4月6日 第24回全国グアム島戦友会 浜名湖 弁天島ホテル

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平成4年(1992年)4月5日 第25回全国グアム島戦友会 石和温泉 常盤ホテル

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平成5年(1993年)4月4日 第26回全国グアム島戦友会 三笠温泉 奈良ホテル

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平成7年(1995年)4月2日 第28回全国グアム島戦友会 松風閣

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平成9年(1997年)4月6日 第30回全国グアム島戦友会 成田市 扇屋旅館

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平成11年(1999年)4月4日 第32回全国グアム島戦友会 信州松代 ロイヤルホテル

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平成12年(2000年)4月7日 第33回全国グアム島戦友会 九段会館

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平成13年(2001年)5月13日 第34回全国グアム島戦友会 三谷温泉 松風園

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平成14年(2002年)4月7日 第35回全国グアム島戦友会 九段会館

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平成14年(2002年)10月 ジーゴ
全国グアム島戦友会グアム慰霊巡拝の旅

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メダルの授与
全米歴史公園太平洋戦争記念博物館

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バスの中で、説明する加納副会長

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表彰された9名の方々
このメダルは、米軍の戦争60年の記念に造ったメダルで、
戦った日本軍と言うことで、同行の9名のものが貰ったわけです。

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平成15年(2003年)4月6日 第36回全国グアム島戦友会 九段会館

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平成16年(2004年)4月4日 第37回全国グアム島戦友会 安芸能美簡保保養センター

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平成17年(2005年)4月3日 第38回全国グアム島戦友会 九段会館
平成17年(2005年)1月15日
石和温泉アルバム撮影会

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会員・加納俊雄氏 提供

  • 陸軍 伍長 加納 俊雄 大正十年一月十日 生。
  • 昭和17年(1942年)1月10日 歩兵代149連隊に入営。
    同4月満州黒河省?琿県 神武屯 、歩兵大9連隊に編入。
  • 昭和19年(1944年)2月25日、転用派遣のため北安出発、
    3月3日釜山出発、門司、横浜寄港、3月12日東京港出帆。
  • 3月19日サイパン、3月20日グアム島上陸、独立混成大10連隊に編入。
  • 9月20日グアム島高原山陣地において、左耳負傷。
  • 10月26日 グアム島高原山南10キロ地点に於いて右大腿部貫通銃創を受く。
  • 11月グアム島米軍の「日本軍捕虜収容所」に収容。
  • 昭和20年(1945年)10月20日グアム島出帆、
    10月24日神奈川県浦賀港上陸。復員。

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