全国グアム島戦友会


織田氏 投降勧告文

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我が心の勲章    幹事 織田 博

これが 私に 生への道を 選ばせた 「勧告文」である。

勧告文


昭和19年(1944年)8月、グアム島を守備する日本軍は極めて優勢な米軍の前に玉砕し、生き残った二千余の将兵は祖国を信じ、敵地となった島の密林で持久戦を継続し、米軍の執拗な掃討戦の眼を逃れ、生きることに懸命であった。
な頃、行動を共にしていた戦友六名を一時に失い、私は左脚に貫通銃創を負いながら、ただ一人命永らえた。

一人になって熟慮の結果、密林内を徘徊することを止め、島の南部に自然洞窟を見つけ、米軍や島民の眼を逃れ、同時に友軍との接触の機会も失い、最後まで孤独な一人であった。
食糧、水、生活用具、とりわけ火の確保は至難なことであった。ガラス瓶の底をレンズに見立て数限りなく失敗を繰り返し、小さな焦点から淡い煙が昇りほのかな炎を見たとき何か崇高な思いと涙が溢れてくることを禁じ得なかった。

一般社会から遮断され情報ニュースからつんぼ桟敷におかれ、戦局の推移も援軍の救出の可能性とか、密林の友軍の動きなど分らず、果てには友軍は救出され自分だけが島に
取り残されたのでは等と思い悩み、日本の敗戦も知ることなく、希望も薄れ自活にも限界を感じ、遂に死を決した。いつの間にか一年近くが過ぎていた。
自決の場と決めた山頂に立ち、紺碧の大空の下、大海原を望み、手榴弾を吾とわが身に打ちつけようとした一瞬、草むらに一枚の紙の落ちているのに気づいた。一読大きく震えた。貪るように読み返した。
今の今まで祖国を信じ、呪縛にも似た軍人精神を堅持し生き続けてきた自分は何であったのか。
ビラの真偽をめぐり葛藤が渦巻き、幾度となく熟読し、山頂で夜露に濡れながら眠られぬ夜を過ごした。翌朝、洋上に昇る太陽を見て、捕虜と言う言葉が複雑に脳裏に感応する中で、米軍のストツクヤードに出頭したのである。

私を取り調べた若い米兵が片言の日本語で言った。
「あなたは日本軍人としての責任を充分に果たしたのですから、此処に出頭してきたことを恥じることはありません。我々は貴方を喜んで迎えます。安心してよき友人になりましょう。自分の命は大切にして下さい。」
私は、彼等のヒューマニズムに強い感銘を覚え、それまで自分が抱いていた予測が杞憂に帰したことを実感したのである。
帰国までの一年間の収容所生活は生命の尊さと生の喜びを教えてくれた。
既に戦争は遠い郷愁となったが、孤独の体験は私の処世訓となって今も心の奥深く輝き続けているのである。

[カナ文で読みづらいが、当時を偲んで勧告文の原文の清書を添付する。]

ガム島「ジヤングル」ニ在る帝国陸海軍人及一般市民ヘノ通達

昭和20年8月16日   ガム島 佐藤少佐

将兵竝ニ 邦人各位 堅実ナル日本精神発揚ト 悽愴苛烈ナル「ジヤングル」戦闘ヲ続行シテ 現在ニ至ツタ 純真無雑ナ心臓ヲ動カスモノハ 結局吾々ノ断乎タル 正シイ状況報告デナケレバナラナイモノト信ジマス。
誠ニ申スモ畏キ極ミナガラ、大東亜ノ聖戦ハ 大詔モ渙発ノ下 堂々ノ進撃ヲ見マシタガ 其ノ後ノ戦闘必ズシモ吾ガ帝国ニ利アラズ、最近ニ至リテハ敵ハ史上稀ニ見ル原子爆弾ノ使用、一発ノ投下、ヨク一都下ノ民衆ヲ殺戮スルトイウ事態ノ現出トナリ、加フルニ去就ヲ注目セラレテ居ツタ「ソ」聯ノ対日参戦トナリマシテ、帝国ノ戦争目的達成ニ非常ナル困難ヲ極メマシタ。
畏クモ大内山ニ於カセラレマシテハ、痛ク現段階ヲ御軫念遊バサレ 止ムヲ得ズ大東亜戦争完遂半ニシテ戦闘中止ノ大詔 御渙発ト相成ツタノデアリマス。
御聖旨ノ程誠ニ恐懼感激ニ堪エナイトコロデアリマス。事態 既ニ此処ニ立チ至リ 我々帝国外征皇兵ノ執ルベキ手段ハ大命ニ変ラザル大命ノアルトコロニ速ニ帰一スルニアルト思ワレマス。
アマリニモ急変ナル皇国ノ現状ニ オ互イハ迷ウノデアリマスガ 顧ミテ思子ヲバ 畏レクモ大内山御命令據テ 世界ヲ原子爆弾ノ災禍カラ遠カラシメ 向後ノ皇国発展ノ道ヲ御明示ニナツタノデアリマス。有リ難キ御叡慮ニ 帝国臣民ハ勿論 世界ノ民族ハ悉ク慟哭シタコトト想ハレマス。戦争ハ中止ニナリマシタガ 吾ガ御皇室ノ御陵威力ハ燦トシテ人類ノ世界ニ光被出来タコトト思ワレマス。
今ハ徒ニ個人ノ上ニ嘆キ悲シムトキデハアリマセン。起ツテ祖国恢弘ノ為励マネバナラナイ急場デアロウト思ワレマス。
今回ノ企図ハ米軍ノ一切ノ指図カラ離レ、佐藤少佐以下将兵竝ニ邦人各位ノ熱烈ナル発案カラデアリマス。
「ジヤングル」カラノ身上ノ取扱ハ最モ安全且ツ急速ナル吾等ノ力ニヨツテコレヲ行イマス。何卒各位ハ 小官等ノ意図ト言外ノ微畏ヲ 絶対的ニ信頼セラレ斯カル現況下、米国軍隊ノ下ニ集合シタ在島残留将兵竝ニ邦人ガ 各位ノ出馬ニ懸命ニナツテイルコトニ想當シ 一切ノ疑念ヲ捨テテ今日マデ勇戦激闘セラレタ姿ヲ 吾々ノ前ニ一日モ早ク現出セラレンコトヲ。

注意。
皆様誘導ノタメ、次ノヨウニシテアリマスカラ御承知下サイ。

  1. 吾々ハ皆様ニ向ケ放送ヲ致シマス。出来レバ飛行機、及ビ船カラモ放送致シマス。マタ、コノビラヲ散布イタシマス。
  2. 次イデ将校以下「ジヤングル」内ニ皆様ノ誘導ニ参リマス。
  3. 若シ将校以下ガ誘導ニ上ガラナクトモ最寄ノ米兵舎、米演習部隊ニ連絡シテクダサイ。
    又、自動車道路上ニ出テキテ下サイ。コノ際白旗ニテ明瞭ニシテクダサイ。武器ハ置イテキテ下サイ。

佐藤清八 印加

 


 

グアム平和慰霊公苑来歴

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グアム平和慰霊公苑 Guam Peace Memorial Park

来 歴

現在グアムの法人として登録されている
SPMA:South Pacific Memorial Association Incorporated
の関係者のご厚意により、資料参照が出来ました。


昭和40年(1965年)
7/31-8/14

南太平洋戦没者遺骨収集並びに慰霊法要のため
グアム、パラオ、ぺリリュウ、アンガウル諸島。

昭和41年(1966年)
7/7
(財) 南太平洋戦没者慰霊協会 設立
昭和42年(1967年)
1/15-1/18

南太平洋戦没者慰霊塔 建設起工式 挙行
南太平洋戦没者慰霊協会、仏・基 合同慰霊法要 導師
日本国政府、全国グアム島戦友会等、参加。

昭和44年(1969年)
4/10-4/13

南太平洋戦没者慰霊塔 上棟式
仏・基 合同慰霊法要 導師

昭和45年(1970年)
6/22-6/24

ジーゴ慰霊塔 完成 落慶除幕式
仏・基 合同慰霊法要 導師

昭和52年(1977年)
7/22-23

南太平洋戦没者33回忌
仏・基合同慰霊祭 法要 導師

昭和56年(1981年)
10/23
平和慰霊公苑で平和寺 地鎮祭
昭和57年(1982年)
9/2-6

平和寺完成 落慶式、仏・基合同慰霊法要 導師
日本国政府関係者、戦友会等、多数参加、挙行。
カルボ知事始め、仏・基 来賓多数。

 


 

慈母観音(マリア観音) 

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マリヤ観音

我無山平和寺のご本尊 慈母観音は、マリア観音とも呼ばれ、我無山平和寺のご本尊です。
かっての、日本のカトリック教徒は 聖母マリアの「愛」を、仏教徒は慈母観音の「慈悲心」を信仰の対象としてきました。
今ここに、南太平洋における総ての戦没者を御祀りして、怨親平等にご供養し、諸霊位のご冥福と、世界永遠の平和を祈念するため、南太平洋戦没者慰霊協会が中心となり、日米の仏基があい協力して、諸宗教 共同の礼拝所とする平和寺を建立した。

 

GUAM PEACE MEMORIAL PARK
Sept.3rd. 1982

The South Pacific Memorial Association composed of benevolent members, has established this Park and dedicates it to the peoples of the world, especially of the South Pacific, regardless of religious beliefs or affiliations.
It is also dedicated to our brothers and sisters who have died in heroic valor during the last war and whose memory we remember in deep respect.
The Pray Hall, called the QUEEN of PEACE CHAPEL, has a atatue which represents the BLESSED VIRGIN MARY of the Christian faith and JIBO KANNON of Buddism, and lays its foundation of LOVE and UNITY among our nations. The symbolism of the representation envisions a spirit of ecumenism and freedom of worship.
The QUEEN OF PEACE CHAPEL provides an atmosphere of serenity and quiet for deep meditation and worship. As envisioned, this is open to Christians and Buddists alike, as well as to everyone who comes in search for solace and comfort in prayer.

 


 

マンギラオ 戦没者慰霊塔 について

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2006-10-18 筒井久子

マンギラオ

  1. 私はグアム島に主人が軍の仕事をすることになり60年前(戦後直ぐの時期)にグアムに来て、とうとうグアムに永住することになりました。
    記録となる書類は、何年か前にグアムに大きな台風が来まして、大切にしていました本・写真など水浸しになりまして読めなくなりまして、捨ててしまいました。ですから慰霊塔が建てられた1974年は分かっていますが、ただそれだけしか残っていませんので細かな日時の記録は分かりません。
    主人は日本軍の生き残り兵の伊藤さん、皆川さん、横井さんのお世話をさせていただきました。私も主人のお手伝いをさせていただきました。

    そして私の同級生が皆んな、グアム島で戦死しましたので私は女性に生まれましたおかげで同級生の身と魂をグアム島でお祭りしお祈りさして頂けるように御用が許されました。
    まだ、グアム島のことを知らないときに、ハワイから四国に帰りました時、『グアム島戦死』と同級生のお墓に書かれていますのを読み、グアム島が何処にあるかを知って思いました。そうして、こうして戦友の御霊をお祈りするためにグアム島に来ることになりましたのも、女性に生まれたのも、このような御用のためと思います。

  2. この場所に慰霊塔が建ちましたのも思えば本当に不思議です。
    主人が軍を止めまして観光局の仕事をしていました時、日本から三重県出身の佐藤様がグアムに土地を買って住宅を建て、筒井さんと一緒に住みたいと、土地を探していました。主人がこの土地を見せましたら大変気に入りまして『筒井さんこの土地に決めましたので、宜しく』と申されたのですが、その時、自然と私の口から『佐藤様、すみませんがこの土地には慰霊塔が建ちます。世界救世教はとても慰霊を大切にされますので、総長に話しまして、この土地に慰霊塔を建てて頂く様に話します。』と言葉が出て来ました。
    佐藤様は『いくら筒井様がそう申されても、住宅を建てます』と頑張られました。しばらくしますと、佐藤様の事業が失敗しまして『この土地を世界救世教に買って欲しい』と話されましたので、私は総長に話し、慰霊塔を建てていただきました。
    慰霊塔の建設に際しましては、いろいろ不思議なことがおこりました。

  3. 戦争犠牲者の遺骨のことを話させていただきます。私が海軍の基地で仕事をしていました時に、いつもはランチタイムの時でも何人かが仕事場にいたのですが、その日は私一人でした。米軍の軍人さんがニコニコしながら大きな袋を担いで私のところに持ってきて『ミセスこの袋の中には日本軍の兵隊さんの骨が入っています。家に持って帰ってみなでお祈りをしてあげて下さい』と話すから、『どうしてこの骨が日本の軍人の骨だとわかりましたか』と訊ねましたら、『私は海軍のネボマークの基地にいるが、洞窟の中には沢山の日本軍の遺品があり、骨だけを拾ってきました』と話されました。
    私は胸が熱くなりただ『テンキュウ』とお礼だけを申しまして袋を受け取りました。そうして、一緒に仕事をしている島民の方に聞かれたらどうしようと心配しました。いつもなら『メリー、その中に何が入っているの』と皆が必ず聞き、よく『日本軍にひどい目に遭わされた』と話しますが、この時は誰も気が付かなかったようです。これもきっと英霊様がそのようにされたのと思います。
    きっと英霊様がお祈りをして欲しくって私のところに持たしたのと思いました。そうして家に持って帰って毎日お祈りをしていましたら、ある日、主人が会社の大金をちょっとした油断をしました時に失ったのです。
    忘れられません。4月29日でした。それでそのことがニュースになりテレビ・ラジオで放送されまして、友人・知人が心配してお見舞いに来てくださいました。
    家を売ってでも支払いをしなくてはならないと主人と話していました。そうして私は朝仕事に出かける前に兵隊さんの遺骨に向かって、『兵隊さんもご存知のように主人が会社の大金を盗まれました。貴方達の御霊を世界救世教で慰霊碑を建ててお祭りしお祈りして欲しければ、また、千ドルの献金をして欲しかったら、盗まれたお金を探すのを協力してくださいね』とお祈りしまして、仕事に行きましたら、皆がニュースで知っておりまして『よく仕事に来れたね!』と同情して下さいました。そうして夕方もう少しで仕事が終わる時、長男が電話で『マミー、デリーの失ったお金、3百ドルは使われていたけど無事に探された』と喜んで知らせてくれました。皆さん方も一緒になって『良かったねメリー』と喜んで下さいました。

    そして、不思議なことに長男が16年ぶりにグアムにシカゴ大学で設計士の勉強をして帰りまして、一番最初の仕事がこの慰霊塔と教会の設計を許されたのでした。
    それから、もう一つ不思議なことがありました。慰霊塔と教会が無事に建ち、お祝いのお祈りとパーティに、私と一緒に働いていたグアム人の夫人連が皆でグアムのご馳走と花のレイを持って参加してくださったのです。日本兵に大変な目に遭ったと聞かされていましたので、『でも、自分達の兄弟も戦死したので』と話され、『一緒にお祈りをして下さい』と参列されたのでした。そして、御自分のと、来客のと、花のレイを作って持って来られました。日本からいらした先生方にレイをかけて下さいまして、皆さん本当に感激されました。

    それからもう一つ不思議について。主人がお祈りが始まる前に千ドルを私に渡されたのです。私はすっかり忘れていたのですが、何時も英霊様にお祈りする時、慰霊祭のときには千ドル献金させていただきますとお祈りしていましたのを、主人は知らなかったのに、どうして主人が私に下さったのか、とてもその頃の千ドルは大金でした。一時間、私は85セント、スーパーバイザーで一緒に働いていた人は42セントでした。

  4. 私はハワイで英霊の霊にすがられまして大変な目にあったのです。
    日本軍が使用していた占領地の地図を主人が20ドルで買ったばかりに、その地図の持ち主が大佐で立派なサーベルを付け、片足を失っていましたが、夜中に枕元に立っていまして、私はびっくりして『貴方はあの地図の主ですか』と聞きましたら、『うん』と答えて帰ろうとしますので、立ち上がろうとしますがどうしても立てず、その大佐の霊は消えましたが、それからはその大佐の最後の戦死の苦しみを私がさせられたのです。
    「主人がびっくりしてダクターを呼びまして、ダクターが『これはとても今の自分達の力ではよう治さないけど、とにかく入院させます』と、入院させられましたら、見るもの全部日本兵になっていて、病院の大木の葉が全部日本兵になり、もう目を開けられなくなりました時、隣のベットに寝ていましたハワイアンのミセスが『ミセス、貴女が入ってくる時、日本兵がぞろぞろついて入って来た。貴女は危ない。草々に主人を呼んで日本の教会に行きお祈りをしなさい』と話され、主人が来ましたので事情を話し、日本の教会に行きましたら、神主さんが私に懸かっていた日本兵を私が見ましたと同じのを見て、直ぐ霊を清めてくださり、主人に、『弟さんがグアム島から持ち帰った遺品はすべて靖国神社に納めなさい』と話され、主人は直ぐに全部持って靖国神社に納めました。
    私がその遺品を見て、戦死者に同情したから、祖国日本の家族の下に帰りたくて私にすがられたのでした。

    でも、その苦しみの体験で、横井さんが帰国することになりました時に、私の苦しみと同じようになり、主人に『横井さんは精神病院に移す』と困ったダクターが言いましたが、『そんなところに入れられたら何時帰れるかわからん』と心配しまして、リポーターも『筒井さん、何とか助けてください』とすがられ、困って家に帰りましたので、『困ることはない、今は、私どもは世界救世教の信者で、こんなに素晴らしいお祈りの本をいただいているので、このお祈りを、霊に聞かしなさい』と話しましたら、主人が『忘れていた』と、直ぐ病院に行きましたので、私も後から心配で行きましたら、主人と横井さんとがニコニコして、私の所に来まして、『奥さん、助けていただきました。このご恩は一生忘れません』と、『このお祈りの本を頂きます』と、パケットに入れてニコニコして話し、私に紙切れに『筒井の奥さん、一生ご恩は忘れません。これからもウドンのように長くお付き合いお願いします』と書いて渡してくださいました。
    それらは、其の後横井さんの奥さんが『横井さんについて何でも知りたい』と言われ、全部、その時の新聞も、横井さんに関したものは渡しました。

  5. このようにお手伝いできたのも、ハワイでした いろいろ大変な体験が役立ちましたことに 嬉しく思いました。
    だから女性に生まれ本当に良かったと思います。

  6. 一つとても悲しい出来事を話します。主人の弟と勝海さん(通訳)がグアム島に来ていまして、グアムの山中に生き残り兵を米軍人さんと一緒にジャングルの中を探していた時に、小舟で六人ぐらいの日本兵が魚釣りをしていたのを見たので、勝海さんがマイクロホンで、『日本軍の皆さん、もう戦争は終わりました。貴方達を探して、日本に連れて帰ってあげるため、こうしてジャングルの中を調べていますので、早々に出ていらっしゃい』と呼びかけたそうです。
    そうしたら、見る見るうちにいなくなり、山の上に登った途端に、あの7人が切腹して頭を切り落として座っていて、最後の兵は切腹しても頭を切り落としてくれる人がいなくてウンウン唸っていたので、直ぐ米軍人さんが手当てをしまして、日本に帰って百姓が出来るように、新しい道具を持たせて横浜から帰されたそうです。
    その時、その兵隊さんが『アメリカさんがこのように親切にしてくださるのを知っていたら友人を死なすのでなかった』と泣かれた、と、勝海さんが話されました。そしてなくなられた兵隊さんを埋めてあげ、線香の代わりに煙草に火をつけて供えてあげたと話しました。
    その軍人さんの名前のことは話されませんでした。本当に戦友の方々は大変な目にあったということを勝海さんが教えられました。

了。


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