グアム島への兵員輸送について
(一閲覧者からの投稿)
「私の1枚、私の一言」にある小川二一氏の貴重な体験記、興味深く拝読させて頂きました。
戦時の混乱により、回想の中では日付に関し、「頃」という表記となっておりました。これに対し、戦史叢書等では下記「陸軍第二九師団の輸送について」の様な記載がなされております。長い年月を経た現在にあってなお、小川氏の回想にて数日の誤差にとどまっておられるのは驚異的であり、当時の出来事の印象深さを表しているように思えます。体験記において日付は然程大きな意味を持たないとは思いますが、海没により死亡された皆様のご冥福を祈り、鎮魂の意を捧げる意味で、より正確な日付のご報告をとご連絡させて頂きます。
第二九師団輸送で小川氏が乗船されたのは、三菱長崎建造、大阪商船所有の東山丸(Tozan Maru、8,666t)ですが、本船は昭和昭和19年7月26日、北緯18度24分、東経118度02分にて米潜クレヴァル(SS-291 Carevalle)およびフラッシャー(SS-249 Flasher)の攻撃を受け沈没(船員9名、船舶砲兵8名、便乗者18名死亡)とされております。小川二一氏による「私の1枚、私の一言」「東山丸」の写真は三菱横浜建造、東邦海運所有の同名船「東山丸(Tozan Maru、4,649t)」の可能性が高いのではないかと思われます。
(HP Manager制作班 注記 : 東山丸写真について、小川二一氏は「一言」文中の鈴木氏と総トン数を確かめ、同名異船であったことを確認されたそうです。)
グアム島への満州や内地からの部隊移動は、機密により「演習」の名の下、行先不明のまま実施されましたが、釜山から日本までの海路では多くの兵が内地帰還への期待に胸を膨らませたと聞いています。
戦史叢書六によればグアムへの陸軍兵力輸送は四回行われており、これらを釜山港出発順に表すと以下の様になります。
参照資料: [防衛庁防衛研究所戦史室著:戦史叢書第六巻「中部太平洋陸軍作戦<1>
朝雲新聞社
昭和42年(1967年)]
|
1. 陸軍第二九師団の輸送(長期演習)について (戦史叢書第六巻、303〜306ページ) |
昭和19年
2月24日
08:00時頃 |
釜山港発。
- 安藝丸(Aki Maru、陸軍徴用船九九八丸、11,409t)
- 乗船部隊:師団司令部、師団輜重隊の一部、師団経理勤務部、師団通信隊の一部、師団野戦病院の一部、歩三八聯
- 東山丸(Tozan Maru、陸軍徴用船九一八丸、8,666t)
- 乗船部隊:師団戦車隊、師団通信隊の一部、師団兵器勤務隊の一部、師団輜重隊の一部、師団経理勤務部の一部、師団野戦病院の一部、歩五〇聯
- 崎戸丸(Sakito Maru、陸軍徴用船九九二丸、9,245t)
- 乗船部隊:師団司令部の一部、師団通信隊の一部、師団戦車隊の一部、師団経理勤務部の一部、師団兵器勤務隊の一部、師団野戦病院の一部、師団輜重隊、歩一八聯
各部隊の行先
- 師団司令部と師団直轄部隊、歩三八聯=グアム
- 歩五〇聯=サイパン
- 歩一八聯=テニアン
|
昭和19年
2月25日
03:00時 |
宇品着(停泊のみ)。 |
昭和19年
2月26日
21:00時頃 |
駆逐艦「岸波」、「朝霜」、「沖波」の護衛の下、宇品発。
(HP Manager制作班 注記 : 小川二一氏によると「宇品では@武器等機材の積み替え、物資の積み込みが行われ、兵隊は新品の銃と120発の銃弾を全員が受け取り、新品の夏服を支給された。A行き先は明かされなかったが、目的の島に敵が先についていれば、敵前上陸する。日本軍が先に上陸すれば、水際戦を行う。という艦内放送があった。従って、宇品での停泊は少なくとも3日以上はあったはずで、釜山の出港がもう少し早かったのではないかと言われています。)
|
昭和19年
2月29日
03:00時頃 |
南大東島南西沖(北緯25度33分、東経130度42分)にて米潜水艦ロック(SS-274 Rock)を発見、駆逐艦「朝霜」の攻撃により撃退。
米潜ロック損傷。 |
昭和19年
2月29日
17:53時 |
沖大東島南方200km(北緯22度40分、東経131度50分)にて米潜水艦トラウト(SS-202 Trout)の雷撃を受ける。
安藝丸大破、約30名死亡。
東山丸へ魚雷命中。(不発)
「朝霜」の攻撃により、米潜トラウト沈没(乗組員81名戦死)。 |
昭和19年
2月29日
19:00時 |
崎戸丸にて退船命令発令。 |
昭和19年
3月1日
04:00時頃 |
炎上中の崎戸丸沈没。
船員52名、船舶砲兵65名、乗船部隊2358名が死亡・行方不明 (歩一八聯長・長門大佐を含)。
(HP Manager制作班 注記 : 小川二一氏によると、「崎戸丸撃沈」の模様は、「グアムへの途中、昼すぎだったが東山丸でも退避ラッパが鳴り、安芸、崎戸、東山の順で航行していた。兵隊は全員甲板に退避していたので、崎戸丸が着弾し炎上していたのを目撃した。東山丸の退避ラッパは直ぐ鳴り止んだが、崎戸丸の退避ラッパは鳴りやまず、いつまでも吹き続けられ悲しげに聞こえていた。」
「米軍の潜水艦攻撃」の模様は、「潜水艦の姿は見えず、夜に、敵艦を友軍の駆逐艦が、撃沈したとの船内放送があったが、既に、それまで行き先や状況の説明で何度も訂正放送が繰り返されており、兵隊達はこの時の「敵潜水艦撃沈」を、誰も信じようとはしなかった。」)
|
昭和19年
3月4日 |
東山丸、安藝丸が「沖波」による護衛の下、グアム着。
師団司令部と師団直轄部隊、歩三八聯を揚陸。 |
昭和19年
3月5日 |
東山丸、サイパンへ回航。歩五〇聯を揚陸。 |
昭和19年
3月6日 |
「岸波」、「朝霜」が、崎戸丸の生存者を乗せサイパン着。 |
2. 派遣隊の輸送(ロ号演習)について (戦史叢書第六巻、310〜319ページ) |
昭和19年
3月3日 |
釜山港発。
- 但馬丸(Tajima Maru、陸軍徴用船、6,995t)
- 第一眞盛丸(Shinsei Maru No.1、陸軍徴用船、5,878t)
- 高岡丸(Takaoka Maru、陸軍徴用船、7,006t)
- 乗船部隊:第五派遣隊、高二五聯本部・一大本部・一中・二中・三大本部・七中
- 玉鉾丸(Tamahoko Maru、陸軍徴用船、6,780t)
- 對馬丸(Tsushima Maru、陸軍徴用船、6,754t)
- 乗船部隊:第八派遣隊、高二五聯二大本部・五中・九中
- 日美丸(Hibi Maru、陸軍徴用船、5,875t)
各部隊の行先
- 第三一軍司令部、第一派遣隊、高二五聯本部・一大本部・三大本部・一中・二中・六中・七中、独自二七八中、歩一八聯戦車中隊・機関砲中隊・三個迫撃砲中隊、第六〇碇泊場司令部=サイパン
- 第三派遣隊、高二五聯四中=エンダービー
- 第五派遣隊=パガン
- 第六派遣隊、野高五二大本部・二中=グアム
- 第八派遣隊、高二五聯二大本部・五中・九中=トラック
|
昭和19年
3月8日 |
横浜着(停泊のみ)。
- 第三一軍司令部、歩一八聯戦車中隊・機関砲中隊・三個迫撃砲中隊、第六〇碇泊場司令部乗船(日附不明)。
|
昭和19年
3月12日 |
陸海軍徴用船12隻により「東松二号船団」を編成。
9隻の海軍艦艇護衛の下、横浜発。
船団の編制は以下の通り。
- 第一分隊=國陽丸(Kokuyo Maru、海軍徴用船、4,667t)、玉鉾丸、第一眞盛丸、あとらんちっく丸(Atlantic Maru、海軍徴用船、5,872t)
- 第二分隊=美保丸(Miho Maru、海軍徴用船、4,667t)、但馬丸、大天丸(Daiten Maru、海軍徴用船、4,642t)、柳河丸(Ryuka Maru、海軍徴用船、2,813t)
- 第三分隊=安房丸(Awa Maru、海軍徴用船、4,523t)、日美丸、對馬丸、高岡丸
護衛艦艇=軽巡「龍田」、駆逐艦「野分」、「卯月」、「夕凪」、「朝風」、海防艦「平戸」、第二〇号掃海艇、敷設艇「測天」、「巨濟」
|
昭和19年
3月13日 |
北緯32度52分、東経139度12分にて米潜水艦サンドランス(SS-381 Sand Lance)の 攻撃を受ける。
「龍田」沈没。
國陽丸沈没。船員43名、乗船部隊579名死亡。
玉鉾丸被雷。 |
昭和19年
3月18日 |
高岡丸、パガンへ回航。第五派遣隊を揚陸。 |
昭和19年
3月19日 |
「東松二号船団」、サイパン着。 |
昭和19年
3月20日 |
玉鉾丸、グアムへ回航。乗船部隊を揚陸。 |
3. 増強兵力の輸送について (戦史叢書第六巻、319、352ページ) |
昭和19年
3月20日 |
釜山港発。
- はあぶる丸(Havre Maru、陸軍徴用船、5,652t)
- 加古川丸(Kakogawa Maru、陸軍徴用船、6,886t)
- マカッサ丸(Macassar Maru、陸軍徴用船、4,026t)
- 日秀丸(Nichihide Maru、陸軍徴用船、7,785t)
- 乗船部隊:戦九聯一中・二中・整備中隊の一部、独工七聯二中
各部隊の行先
- 第二派遣隊、独工九聯、高二五聯三中=トラック
- 戦九聯、独工七聯=サイパン
- 戦九聯一中・二中・整備中隊の一部、独工七聯二中=グアム
|
昭和19年
3月27日 |
横浜着(停泊のみ)。
加古川丸へ船舶工一六聯、日秀丸へ船舶工一六聯二中乗船( 日附不明)。 |
昭和19年
4月1日 |
陸海軍徴用船26隻により「東松四号船団」を編成。
13隻の海軍艦艇護衛の下、横浜発。 |
昭和19年
4月3日 |
北緯30度14分、東経139度45分にて米潜水艦ポラック(SS-180 Pollack)の攻撃を受ける。
東征丸(Tosei Maru、陸軍徴用船、2,814t)沈没。便乗者1名死亡。 |
昭和19年
4月9日 |
「東松四号船団」、サイパン着。 |
昭和19年
4月10日 |
日秀丸、グアムへ回航。乗船部隊を揚陸。 |
昭和19年
4月15日 |
はあぶる丸、トラック着。乗船部隊を揚陸。 |
4. 増強兵力の輸送について (戦史叢書第六巻、352、353ページ) |
昭和19年
3月27日 |
釜山港発。
- 勝川丸(Katsukawa Maru、陸軍徴用船、6,886t)
- 利根川丸(Tonegawa Maru、陸軍徴用船、4,997t)
各部隊の行先
- 独高四二中、独高四三中、独自二六四中=サイパン
- 独高四五中、独自二六五中=グアム
|
昭和19年
4月3日 |
横浜着(停泊のみ)。
歩一五〇聯第一回補充員乗船(日附不明)。 |
昭和19年
4月15日 |
陸海軍徴用船18隻により「東松六号船団」を編成。
12隻の海軍艦艇護衛の下、横浜発。 |
昭和19年
4月23日 |
「東松六号船団」、サイパン着。 |
昭和19年
4月23日 |
利根川丸、グアムへ回航。乗船部隊を揚陸。 |
以上、陸軍部隊に対するグアム派遣に携わった徴用船は、安藝丸、崎戸丸、玉鉾丸、日秀丸、利根川丸でございます。この内、人的損失が生じたのは安藝丸と崎戸丸となります。
各輸送でのグアム揚陸日については到着日と共に記載しましたが、到着から揚陸まで間を置いた部隊もあるかと思います。実際に経験された戦友会の皆様のご意見が伺えれば、より正確な表が完成するかと思います。
尚、日本海員組合のホームページ「戦没した船と海員の資料館」内の下記ページでは、戦没船情報がリストアップされています。
戦没した船と海員の資料館: www.jsu.or.jp/siryo/
戦没船情報のリスト: www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/senbotukisenlist.pdf
詳細は、上記資料館へお問合せください。
以上。 |
Reconguest of Guam (米国陸軍省発行。重田督之 訳)
- 本書の由来
圧倒的物量を誇る米軍は2万800人の日本軍を20日で制圧し、生き残りの日本軍は糧を求め南部ジャングルを目指し退避中。私達4人のグループの内2人掃蕩隊の不意打ち射撃受け即死。盟友の三重の山脇
亘は脛に盲管銃創を受け40m程ジャングルに逃避したが力尽き倒れた。私が応急止血したが敵は背後に接近。私は投降を決意し両手を挙げ「マイディア・アメリカン・ソルジャー」親愛なるアメリカ兵よ。通じるか否か夢中で叫んだ。射殺は免れた。後、米本国アイオワ州クラリンダ収容所に移送され、私達仲間が酒保(売店)で本書を見つけ購入した。英語に趣味を持つ私はグアム戦のみ翻訳した。在米中は三等通訳として米軍との通訳に従事した。
(重田 記)

2006年4月 39総会名古屋で説明する重田督之
会員
- 原文
Reconquest of Guam
The reconquest of Guam, which had been seized by the Japanese the
day after Pearl Harbor, was prepared by intensive air and naval
bombardment. For seventeen days (July 3‐20, 1944) carrier planes
from the forces under Admiral Spruance pounded the island and,
in addition, destroyed the garrison at Rota, which lies halfway
between Saipan and Guam. For a week before the landings, battleships
and cruisers bombarded the western Coast of Guam.
The landing forces consisted of the 3rd marine Division and the
1st Provisional Marine Brigade under Major General (now Lieutenant
General) Ray S Geiger, reinforced by elements of the 77th Infantry
Division under Major General Andrew D.Bruce. They went shore (July
20 1944), meeting little resistance, on either side of Port Apra
and within two days cut off the Orote Peninsula in the west. The
enemy lost two thousand men in night counterattacks. Then the Americans
drove across Guam to the eastern coast and reduced enemy opposition
where it was strongest, in the mountainous north, by capturing
Mount Barrigade (August 3, 1944). Organized resistance came to
an end after twenty days of fighting in which 14,069 Japanese were
killed and the Americans suffered casualties of 1,226 killed, 5,765
wounded and 329 missing..
The Japanese contested every yard of ground and died rather than
surrender. In the General Pacific from the invasion of the Gilberts
late in 1943, to the conquest of Guam ten months later, Admiral
Nimitz reported (August 13, 1944) that 52,323 Japanese were killed.
Only 3,022 were taken prisoners. The number of Americans who died
was 5,903.
On July 19, 1945 the Navy announced that 13,932 Japanese had been
killed on Tinian, Guam, and Saipan Islands since the islands were
secured.
[ WORLD WAR II 1939-1945 p.281 ]
- 翻訳
真珠湾後、日本によって占領されたグアムの再奪還は、1944年7月3日より20日まで海軍大将スプルアンスに依って用意された強烈な空海曝撃に依って猛撃した。
その他、グアムとサイパンの半分道にあるロタ島も猛撃した。
上陸一週間前、戦艦と駆逐艦はグアムの西海岸を曝撃した。
上陸部隊は第3海兵師団が第77歩兵師団のアンドルー D. ブルース少将と第1海兵旅団のロイS. ゲイガー少将(今は中将)が補強され、彼等は7月20日上陸した。少々の抵抗を受けたが、西海岸とオロテ半島を2日で切り離した。
敵は夜襲で2,000人を失った。
そして米軍は山の多い敵の強烈な強い東海岸に突進し、1944年8月3日春田山を占領した。組織的な戦闘は20日間で終了し、日本軍は14,069名の戦死者を出し、米軍も1,226名の戦死と5,765名の負傷及び329名の行方不明者を出した。
日本人の戦争は各所で降伏より死者が多い。
中部太平洋1943年ギルバートからおくれた10ヵ月後グアムの奪還した1944年8月13日、ニミッツ元帥の報告では、52,323名の日本人が殺され、僅か3,022名の捕虜をとった。そして米国5,903名殺された。
1945年7月19日テニヤン島では13,932名の日本兵が殺された。
|